「胡地」の「胡」からたどる異民族へのまなざし 【漢検1級で出題された熟語を解説! 12】
著者:伊藤令子(漢字文化研究所研究員)
漢検最難関の1級では、約6,000字の対象漢字の中からさまざまな熟語が出題されます。中には、漢字そのものは知っていても、複雑な読み方やその言葉の意味を知らないと答えられない問題も。
このコラムでは、実際に過去に漢検1級で出題された熟語を漢字文化研究所の専門家が、その背景なども詳しく解説します!
1)「コチ」へ赴く王昭君
「王昭君が コチ の旅」。2022年度第2回の漢検1級で出題された問題です。「コチ」は漢字では「胡地」と表記します。「王昭君」と「胡地」という組み合わせは、唐の大詩人・李白の「王昭君二首」の二首目に登場します。
昭君払玉鞍、上馬啼紅頬、今日漢宮人、明朝胡地妾。
(王昭君は玉で飾った鞍に手をかけ、馬に跨って赤い頬に涙を流す。今日は漢の宮女だが、明日の朝には匈奴の地へ嫁ぐ身となる。)
王昭君とは、前漢の時代、北方の遊牧民族である匈奴の単于(匈奴の君主の称号)に嫁いだ女性で、この詩は、漢の宮廷を離れる彼女の姿を思い描いて詠まれたものです。この詩の最後の句に「胡地」という語が登場しますが、これは何を表す語でしょうか? ここでのポイントは「胡」です。
「胡」の熟語のなかには、「胡」に「異民族」や「異国」の意味が込められているものがいくつかあります。例えば「胡麻」(異国から来た麻の実のようなもの)、「胡椒」(異国から来た香辛料)、「胡服」(異民族の服)、「胡桃」(異国から来た桃のような実)などです。「胡地」もまた、この詩のなかでは「漢の側から見た異民族の地」、すなわち王昭君が赴いた匈奴の居住する地を指します。
2)漢字「胡」の意味
「胡」という漢字について、さらに遡って見てみましょう。
後漢の許慎が編纂した字書『説文解字』の「肉部」では、「胡」は「牛
垂也(牛の下顎から垂れた肉である)」と説明されており、「異国」や「異民族」などとはまったく異なる意味が示されています。
一方で、『史記』巻43「趙世家」には「胡服騎射」という句があります。趙は中国北方に位置し、北方の遊牧民とも接する機会が多く、趙の武霊王は彼らの服装や戦い方を取り入れようとしました。「胡服騎射」とは、北方の遊牧民の服装を身につけ、馬上から弓を射ることを表します。
また、『漢書』巻94「匈奴伝・上」に引かれた、単于から漢に送った手紙には、「南有大漢、北有強胡(南には漢が、北には匈奴がある)」とあり、「胡」が匈奴を指して用いられています。
どのような過程でそうなったかは不明ですが、以上の用例を見ると「胡」という漢字は、古くから匈奴をはじめとする北方の遊牧民を指すのに用いられていたことがわかります。
さらに時代が下ると、「胡」は、北方だけではなく西方の異民族を指す語として広がっていきます。例えば、6世紀の『洛陽伽藍記』巻1には、「時有西域沙門菩提達摩者、波斯国胡人也(時に西域の仏僧の菩提達摩という者がいて、波斯国の胡人である)」とあります。波斯国とはペルシャ(現在のイランのあたり)を指し、この一節では、西方から来た人物を「胡人」としています。
3)「胡瓜」と「黄瓜」
ちなみに、「胡」には、今でもお馴染みの野菜の名前をめぐる興味深い逸話があります。
中国北部では、4〜5世紀にかけて非漢民族の建てた国々の王朝が入れ替わり立ち替わり出現します。この時期は「五胡十六国時代」とも呼ばれました。(「胡」がここにもありますね。)
この五胡十六国時代の王朝の一つに、羯族出身の石勒が建てた後趙がありました。唐の陳蔵器『本草拾遺』によれば、北方では石勒に関連して「胡」の字が避けられたため、キュウリを意味する「胡瓜」が「黄瓜」と記されるようになったとされています。
ただし、この話には異説もあり、例えば唐の杜宝『拾遺録』では、「胡」の字が避けられ、キュウリの表記が「胡瓜」から「黄瓜」となったのは隋の大業年間としています*1。
この逸話の真偽は定かではありませんが、「胡」という呼称が、時には忌避の対象となったことを窺わせます。
4)西域の「胡人」
その後唐の時代になると、シルクロードを通じた東西交易が盛んになり、説話・小説などにも「胡人」が登場します。この「胡人」は、西域から来たソグド人やペルシャ人なども表しました。唐の小説では、こうした胡人が、珍しい物品や不思議な知識・技術を持つミステリアスな存在として描かれることもありました。
このような唐代小説における「胡人」像も、「異国への憧れ」の表れといえば聞こえがいいですが、反面、西域の人々をまとめて、自分たちとは異質な、魔法使いのような存在として見ていたともいえます。唐代の「胡人」の表象にも、やはりある種の偏見が含まれていたのかもしれません。
「胡」は、冒頭にも挙げたように、「胡麻」や「胡椒」など日常的な食材名にも出てくる親しみやすい漢字ですが、その背景を掘り下げれば、中国大陸のさまざまな民族同士の交流や、自分たちとは異なる民族に対するまなざしのあり方が浮かび上がってきます。
次回は11月12日(木)に公開予定です。
≪注釈≫
1 陳蔵器および杜宝の「胡瓜」の表記に関する説については、『本草綱目』巻28「菜之三」の「胡瓜」を参照した。
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